合田道人

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【あ】アイ・ジョージ (1993年1月号より)

本名を石松譲治という。まるで股旅ものでも歌い出しそうなその名前。しかしながら名前とはうらはら、日本一のラテンシンガーに育つ。

 昭和8(1933)年、長崎生まれとなっているがサンフランシスコ生まれとも香港生まれともいわれる。本人はここ4、5年、日本を留守にしてのロサンゼルス暮らしというから真偽の程は判らずじまいだが日本とフィリピンとの混血児であることは確からしい。

 その日本人離れしたステージを人々に最初に見せつけたのは昭和34(59)年。トリオ・ロス・パンチョスの来日公演で前座歌手をつとめたときにはじまる。アイ・ジョージの誕生である。好評を得た彼に与えられたのは当然の如くラテンナンバーを日本で流行らせるということ。

 前座歌手を一緒した坂本スミ子とともにすごいスピードでラテン風が日本中を吹き荒れていく。
「ラ・マラゲーニャ」「ククルククパロマ」「キサスキサス」などがそれ。

 しかし彼は、ただのラテン歌手で終わることはなかったのだ。そのひとつの理由としてオリジナルのヒット曲を持ったことにある。

 いわゆるこの手の外国の作品をカバーして人気を上げた歌手には、日本語の、とくにその歌手のために作られた歌をヒットさせることは実に難しいとされている。

 だが彼はその難関をみごと突破。自らの作曲による「硝子のジョニー」で大当たりし、昭和36(61)年度レコード大賞歌唱賞を手中にする。そしてこの歌とともに彼の名声をより高めたのが♪唇寄せれば…「赤いグラス」である。

 今なお、カラオケではデュエット曲のスタンダードナンバー。テイチクの新人、志摩ちなみがデュエットのお相手。現在、福岡に在住の志摩は「あの頃、私の父が九州で劇場をやっていましてね。ですからアイさんもよくうちにお出になっていたし、とても可愛がって頂ました。菊池先生(章子)のお口利きで抜てきされましたけど気の合うお兄ちゃんと一緒に歌ってるって感じでしたわ」と当時を述懐する。

 さて、ただのラテン歌手として終わらなかった今一つの理由、それは世界の檜舞台と称されるカーネギーホールに日本人で最初に出演したことにある。昭和38(63)年のことだ。それは戦後18年、戦争に負けた日本がアメリカを 見返したかのように映り人々は喜んだ。そしてまた「流し出身の歌手がカーネギーへ…」と驚いたものだった。

 歌手になるまでの職業は、流しを含め数種。諸説フンプンとして不明。

 カーネギー歌手という栄光のレッテルを授かりアイ・ジョージ、名歌手の座へ。

 地方巡業の折は、いつもギターならぬ釣りざお片手にというのが有名に。それも釣れないと機嫌を損なうと言われ、また時には"自分しか信用しない人が一番信用できる"と発言したり…。名歌手ゆえの発想か?はたまた苦労を経て勝ち獲った座への自負ゆえか?

 今日まで彼が世界各国で催したコンサートは28ヶ国、120都市に及ぶ。
「近日中に新世紀音楽を披露します。」アイに代わって事務所の人間が教えてくれた。

 新世紀音楽…それは21世紀のための21世紀の音楽。日本の音楽図式をある意味で変えてきたアイ・ジョージのこと、期待に応えるサウンドを聞かせてくれるだろう。