合田道人

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【あ】青江三奈 (1993年2月号より)

 昭和20(1945)年の七夕の日、東京は下町に生まれる。テレビや舞台で見る限りその色っぽさは当代一と云われるが実は江戸っ子気質丸出しのチャキチャキのお転婆娘だった。

 ちっちゃい頃からハスキーボイス。学校での音楽の点数は悪かった。しかしそれが個性として花開いたのだから人生わからないものだ。

 鈴原志麻を名のって横浜でならしたクラブ歌手時代は、シャンソンにジャズ、カンツォーネと洋モノ専門。同じクラブにいた先輩歌手が今の脚本家・ジェームス三木だ。当時を回想して彼はある新聞にこう書いている。

 「私は志麻からクラブシンガーのあり方を学んだ。ひとりよがりの歌は何の値打ちもない。客の心をつかめないようではいい歌を歌えるはずはないのだ。サービス精神あってこそのプロなのである。私がマイクに向かってではなく客に向かって歌うようになったのは10歳も年下の志麻の影響である」。

 それほど彼女のステージには人を魅せる何かがあったのだ。昭和41年、志麻は青江三奈としてデビューする。

 「週刊現代」連載の川内康範作『恍惚』のヒロインの名をそのまま芸名にし、「恍惚のブルース」♪あとはおぼろ、あとはおぼろ・・・・・・一曲でスターの座に。

 同じ会社の新人、森進一と"ためいき路線"と命名され異色コンビと話題を呼んだ。

 それまで歌手になる人は、声がきれいである―――それが絶対条件とされていた。それを見事にうちやぶったのだ。しかしその年の新人賞は二人とも受賞の対象から外されている。いくら大ヒットしても"げてもの"視、一発屋と決めこむのが妥当だったのである。

♪あとはおぼろ・・・・・・周囲の見解通り、翌年ヒット曲はゼロ。♪あとはおぼろ・・・・・・で初出場した「紅白」も一回きりでお払い箱。普通なら一発歌手として忘れ去られるところだが彼女は"何クソ"と気張った。いやマイクにではなく客に向かって歌う術を知っていたからかもしれない。

 翌43(68)年、「伊勢左木町ブルース」でレコード大賞歌唱賞を受賞。「紅白」にも返り咲き、以後16年連続出場。森進一も二年遅れてこの年初出場する。

 「伊勢左木・・・」を皮切りに「長崎ブルース」「池袋の夜」とたて続けに大ヒットさせ彼女は"ご当地ソングの女王"とも"ブルースの女王"とも云われ。それはそのまま"歌謡界の女王"と言い換えることすらできる状態だった。

 その頃、日比谷野外音楽堂で開いたワンコインコンサートは今でも語り草になっている。

 恵まれない子供たちのためにとチャリティーで青江がワンコイン、つまり入場料100円で行ったコンサートである。当日は朝からどしゃ降り。しかし彼女は雨に打たれ衣装をびしょびしょに濡らしながら歌いまくり深い感動を与えたのだった。

 平成2年、デビュー二十五周年の記念リサイタルが開かれた。プログラムの構成のところにジェームス三木の名があった。

 10歳も年下のあの頃の志麻にクラブ歌手のあり方を教えられ、彼女のデビューを境に歌手をやめ、そしてすでに大脚本家に育っていた彼の構成は、彼女の良さを存分に引き出した。

 その年の大みそ日、彼女は7年ぶりに「紅白」の舞台にいた。そして熟練の香りを漂わせながら思い出の♪あとはおぼろ・・・・・・を熱唱した。