合田道人

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【み】宮史郎 (2004年6月号)

 現在でも演歌歌謡曲の中でもっともレコード売り上げを示した歌というのが「女のみち」である。昭和47(1972)年、自主制作盤として発売されたこの歌を歌うのは、宮史郎とぴんからトリオ。巷には「結婚しようよ」「太陽がくれた季節」「旅の宿」とフォーク・ソングが氾濫していた。そんな中で古臭い浪曲調のブンチャカ演歌が、関西地方でよく有線放送から流れていた。

 この歌に目をつけたのが、後にぴんからトリオが所属することになる第一プロダクションの関西営業所。コロムビアが全国発売に切り替えたとたん、翌年にかけて、この歌は史上初380万枚も売り上げたのである。当時はビッグヒットでもシングルレコードは100万枚突破が限度といわれた時代である。それが並外れた記録を更新してしまったのである。

 "日本一の演歌"の歌碑は、歌った宮史郎のふるさと、兵庫県加西市いこいの村に建立されている。

 宮史郎、本名・宮崎芳郎は、激戦の昭和18(1943)年1月17日に生まれた。しかし「女のみち」に出会うまでの、彼の芸道は決して平坦なものではなかった。

 昭和34(59)年、16歳で「男の花道」という歌を吹き込んだ。花道は訪れなかった。二年後にやむなく寄席の世界に入った。大阪松竹芸能に所属し、スパローボーイズという四人組の一員として演芸場にも出ていたが、これも芽が出ない。男の花道はだんだんと遠のいてゆく。

 昭和38(63)年、今度は並木ひろしをリーダーに、史郎の兄である宮五郎と3人でぴんからトリオを結成した。しばらくして吉本興業に入ったが、やはりかんばしくなかった。当時を振り返る。「いやあ、何度解散しようかと思いましたよ」。

 けれど史郎には信念があった。お笑いグループゆえ歌をくずしたり、ナンセンス調に歌うことを求められることが多いが、彼はそれを拒んだ。自分のスタートは歌手であるという自負がいつもそこにはあった。

 昭和47(72)年のことだった。「トリオ結成十周年の記念のレコードでも出そう……ということになりましてね」。

 しかし人気もないお笑いトリオに曲を提供してくれる作家もいなければ、発売してくれるレコード会社もない。自分たちで金を集め、やむを得ず史郎自身が作詩をして並木ひろしが作曲した。それが「女のみち」だったのだ。

 まるで時代錯誤ともとれる、この"ド演歌"一曲でぴんからは一躍、お笑いのときには味わえなかった看板スターの醍醐味を味わうことになる。「女のみち」で男の花道を知ることになるのだ。

 しかし並外れたヒット曲を作ったあとは、伸び悩むというジンクスがある。恐る恐る第2弾を発売、それが「女のねがい」だった。並外れあとの並外れ。なんと170万枚突破。続く"女シリーズ"第3弾「女のゆめ」、これまた80万枚。向かうところ敵なしの猛進撃。しかしグループで活動すると必ず出てくるのが仲違いの問題。ご多分にもれず、並木ひろしと宮兄弟訣別、ぴんから兄弟として再スタートを切って、第4弾「女のきず」。"もうぴんからは駄目"、"ヒットから見放された"などと言われたものの、これだってしっかり50万枚は突破しているし、続く"酒シリーズ"第1弾「ひとり酒」も発売当初よりカラオケ時代に入ってからもてはやされて最終的には80万枚の売り上げを越えているのだ。

 昭和48(1973)年、史郎の歌と兄貴のギターというスタイルで無事にぴんから兄弟として夢の「紅白歌合戦」に初出場、翌年には「女のみち」が映画化され、アメリカやブラジルの公演をしたりと多忙を極めた。

 昭和57(1982)年、「妻と呼ばれて」、そして史郎の幻のデビュー曲「男の花道」の再リリースを最後に史郎はソロ活動を開始する。ソロデビュー2作目が、「ひとり酒」「ほろり酒」に続いた"酒シリーズ"第3弾の「片恋酒」だった。ちょうど「浪花節だよ人生は」「釜山港へ帰れ」など折からの競作ブームだった。この歌も数人の歌手によって競作、宮史郎盤が特にヒットして、その年の「日本歌謡大賞」放送音楽賞にノミネート。その会場に同席していた兄、五郎の感激の涙も印象深い。

 その後、五郎、そして並木ひろしが早逝、文字どおりぴんからトリオはひとりになった。先年、史郎も病いに倒れ、再起不能とも言われたが、みごと復活。変わらぬ歌声を披露している。「きっと二人が、まだこっちに来るなってこの世に追い返したように思うんですわ。二人の分まで頑張ってこれからも歌い続けて行こうと思っています」。男の花道は続く。