合田道人

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【み】三善英史 (2004年7月号)

 田中角栄が、総理大臣になった昭和47(1972)年は、ある意味で戦後というものにピリオドを打った年でもあった。

 5月、戦後、アメリカの国になったに沖縄が日本に返還され、9月には日本の戦中の対中国侵略の事実を謝罪、日中国交正常化が実現、ランランカンカンのパンダが日本にやってきた。グァム島のジャングルに28年間、ほら穴に隠れ生きていた元歩兵第38舞台の横井庄一軍曹が発見され帰国、第一声の「恥ずかしながら生きながらえて帰ってきました」が流行語になった。

 そんな中で歌謡界も新時代の世代交替が顕著となる。前年、復帰秒読みの沖縄からやってきた小麦色の肌の少女、南沙織、宝塚出身の小柳ルミ子に"白雪姫"こと天地真理の"三人娘"が歌謡界の頂点に立ち、さらにこの年には17歳の麻丘めぐみ、14歳の森昌子らによって歌謡界の低年齢化が進んだ。男性もしかり。それまでの橋幸夫、舟木一夫、西郷輝彦の"御三家"に替わって、前年デビューの野口五郎に加え、郷ひろみ、西城秀樹の17歳トリオが"新御三家"となったのである。

 "新御三家"の明るく情熱的なイメージと一線を画し、どこか淋しげでやさしさをただよわせながら、印象的な出だしの♪雨に……のハイトーンで三善英史がデビューしたのも同じ年だった。その母性本能をくすぐるような甘い歌声と甘いマスクは、たちまち女性たちの心を捕らえ日本歌謡大賞最優秀新人賞はじめ、多くの賞を独占する。何しろセンセーショナルな登場だった。

 実は彼は雨男である。今でもよく一緒のステージに出てもらうのだが、彼と一緒になると、晴れ男である私の威力をさしおいて雨を降らす。

 三善談。「この歌歌ってから、雨男になった気がする。デビューの発表会も確かに雨の中で、♪雨に……を歌いましたね」。

 三善英史、本名・田村照彦。昭和29(1954)年9月2日に、東京渋谷区で生まれた。母は渋谷円山町の売れっ子芸者だった。幼少期から彼は父親のいない生活を送った。歌の好きな少年だった。島倉千代子の歌にやさしさを求め、水前寺清子の人生の応援歌を聞いては、自らを奮い立たせた。演歌が好きだったが、歌のレッスン場ではポップス歌謡を多くレッスンした。「三田さん(明)の「サロマ湖の空」とか、タイガースの「青い鳥」なんかが練習曲でしたよ」。

 昭和47年、かくて照彦少年は三善英史になった。「雨」は発売同時からヒットチャートを駆け上り、新時代の花形歌手に成長。続く「あなたが帰るとき」も大ヒット、さらに翌年には自分のふるさと、そして自分の母の身の上を歌った、♪母になれても 妻にはなれず……の「円山・花町・母の町」、続く♪おねえさん はつ恋屋敷町 そのあとぼくは オトナになりました……と「少年記」。

 その意味深モードがかえって女心をくすぐって、みごと「紅白歌合戦」に初出場を決めた。会場にはデビュー前にアルバイトをしていた頃の仲間たちも駈けつけ、感激の面持ちで「円山・花町・母の町」を歌ったが、「僕は父がいなかったですからね。司会の宮田輝さんをお父さんみたいだと思ったものです。紹介されてステージ中央に向かうまでひざに力が入らなくってね。そう、あれはまるで雲の上を歩いているようなそんな感覚でした。でもどうやって歌ったか、まったく覚えていないほど緊張したものです」。

 ヒット曲、テレビにラジオ、取材にコンサートツアーに加え、NHK大河ドラマ「元禄太平記」やTBSの人気金田一耕助シリーズの「獄門島」、それに化粧をしてあでやかな女装姿を披露して話題を投げかけたCM出演など、まったく休みがない超多忙な生活。そんな頃、彼に歌手生命を左右する病魔が襲った。

 「朝、目覚めたら急に耳が聞こえが悪くなくなってたんですね。めまいして。でも風邪だろう……、まあ疲れてるんだろう……とぐらいしか思っていなかったんです。仕事はぎっしりつまってるし。そのうちどんどんと聞こえなくなってきたんですよ。歌を歌う者にとって耳の聞こえが悪いってことは、音が取れないということだから。もう致命傷でした」。

 それは三半規管の障害だった。病院に出向き、そのまま入院。再び歌手復帰するまで一年以上の時間を費やすことになるのである。「今でも耳はちゃんと聞こえないんですよ。でもやっと歌は声ではなく心で唄うものだって分かってきたんですよ。技術的なことだけではなくってね。いちばん怖いのは『雨』や『円山~』を歌うときかな? イメージがあるわけでしょ。母も足腰は随分弱くなったけど、元気でいてくれてますし……」。

 最近の三善英史のコンサート会場には、盲導犬育成のための募金箱が置かれている。病気になってはじめて知った健康のありがたさを噛みしめながら、年老いてゆく母を見つめながらも、彼は心の歌を今日も歌い続けている。