合田道人

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【み】都はるみ (2004年4月号)

 「普通のオバサンになりたい!」、衝撃的な言葉を発して、都はるみが突然歌手引退を表明したのは、昭和59('84)年の3月のことだった。コロムビアコンクールに優勝し、「困るのことヨ」でデビューしたのが昭和39('64)年3月、ちょうど丸20年の月日が流れていた。

 その20年間は、歌手・都はるみにとって何ひとつ悔いのない道のりだったと言って過言ではない。デビュー3作目の「アンコ椿は恋の花」のうなり節で、レコード大賞新人賞、翌年には演歌の名作「涙の連絡船」で2作目のミリオン・セラー、「紅白歌合戦」初出場。以降連続。昭和50('75)年、「今年はこれといったヒット曲がなかったから……」と「紅白」では発売したばかりのフォーク調演歌「北の宿から」を歌ったら売れ出して、翌年にはミリオンセラー。レコード大賞グランプリに「紅白」初の大トリをつとめる。さらに55('80)年には、「大阪しぐれ」でレコード大賞の最優秀歌唱賞受賞を「風雪ながれ旅」の北島三郎と決戦の上、みごと受賞、これで史上初の三冠王達成した。

 新人時代から一緒だった歌手との結婚。その相手とはいまなおカラオケのデュエットソングの定番とよばれる「ふたりの大阪」をともに歌った宮崎雅。この歌のヒット中にふたりは離婚したものの、まるで「もうやり残したことはない……」、はるみは20年目に引退を発表したのである。それは新しい恋に賭けるためでもあった。歌手、都はるみとしては申し分ない人生だった。けれど人間として女としての本名・北村春美はこのままでいいのだろうか?

 「10円やるからうなってごらん」。はるみの母はスパルタ教育にも似た環境の中ではるみに歌を仕込んだ。「弘田三枝子さんみたいな歌手になりたかった」。当時、"パンチのミコちゃん"と呼ばれ人気を博していた弘田三枝子のうなりに演歌の味付け。ミコでもひばりでも畠山みどりでもない、はるみの、はるみだけの独特の個性が生まれた。それはデビューのときから、いやコンクールのときからすでに魅力になっていたし、それは最大の武器にもなっていた。

 はるみデビューの昭和39('64)年組は確かに個性派ぞろいだった。現代まで女性演歌界を引っ張ることになる小林幸子、大月みやこ、水前寺清子が同期に当たる。この大物たちの中ではるみは新人賞を勝ち獲るのである。永遠のライバルなどと言われたチータ、水前寺清子との一騎打ちだったとよく言われているがそれは誤報。実はチータは39年11月デビューで、新人賞レースに加わるのは翌年。実際はるみと最後まで新人賞を争ったのは、「シェリー」の九重佑三子だった。

 「さすらい小鳩」「馬鹿っちょ出船」「涙の連絡船」「アラ見てたのね」「好きになった人」「惚れちゃったんだよ」「おんなの海峡」……毎年のように続くヒット作。「はるみちゃんもちょっと売れなくなったね」と言われるとすぐに「北の宿から」「大阪しぐれ」「浮草しぐれ」、作曲家の岡千秋と歌った「浪花恋しぐれ」。宝物はたくさん集まった。引退発表。

 そしてその年の大晦日、はるみはラスト・シングル「夫婦坂」で燃え尽きた。「紅白歌合戦」の舞台だった。

 あの日から5年経った。平成元('89)年大晦日、はるみは「紅白」の舞台に立っていた。確かに引退してからすぐはるみ復帰のコールは始まっていたし、新人歌手のプロデュースなどもしていた。昭和が平成に移り変わったその年、「紅白」は40回目を迎えていた。第1部「昭和の紅白」。"一日だけの復帰"、そのつもりだった。しかし、世論が黙っていなかった。都はるみの復活を心待ちにしている人はあまりにも多かった。平成2('90)年、歌手復帰。その年の暮れに「千年の古都」を歌って「紅白」トリ。やっぱり彼女の声は日本人に必要だった。

 「今考えれば、ただわがままだったと思いますね。でも歌を辞めて歌の素晴らしさを知ったんです」。何年か前、私のラジオの番組のゲストで迎えたとき、はるみはそう言った。その頃からはるみは自分自身を"歌手"ではなく"歌屋"とよぶようになった。どんな歌でもいろんな種類の歌を持っているはるみ商店。靴屋も魚屋も八百屋も一緒くたの、はるみという萬屋(よろずや)、それが歌屋。それからのはるみは確かにジャンルにこだわらない歌手になった。コンサート会場も今までの会館だけではなく、武道館や日生劇場といった演歌時代とは無縁な場所だったり、屋外だったりすることもある。歌屋、都はるみの個性が今日もどこかで人々を魅了している。