合田道人

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【み】美川憲一 (2003年1月号)

 ファッショナブルないでたちに、中性的な毒舌キャラを武器にトップ歌手、いやトップタレントとして人気を保持し続けている。おば様方からは、"とても身近で強い味方"と映るらしく、断然的な厚い支持を受けている。

 彼の歌声は響く低音。デビュー当時には、"ビロードのような声"と評されたものである。昭和39(1964)年、18歳でまず最初は、大映のニューフェイスに合格してこの世界に入ったが、翌40(65)年には、「だけどだけどだけど」で歌手デビューを果たす。

 その頃の歌謡界といえば、橋幸夫、舟木一夫、西郷輝彦、三田明の"四天王"が男性歌手のトップグループ。美川と同じレコード会社には、西郷、それに「新聞少年」の山田太郎が在籍していた。そこで西郷、山田に続く青春アイドル歌手として、美川はデビューしたのだ。

 しかしはじめから、彼には独特の個性が光っていた。アイドルとして通じる可愛らしい容姿はそなわってはいたが、それにも増して人々の心を突き刺す低く響く歌声が評判をとった。

 そんな個性がマッチして最初の大ヒット曲になったのが、昭和41(66年)の「柳ケ瀬ブルース」だった。今でこそ数多いが、その頃はひとつの町のイメージだけがついてしまうという理由上から、東京と長崎の歌は売れるが、ほかの地域の歌は断然少なかった。それが彼のヒットを発端に、続々と地名入りの歌が登場して、この時点から"ご当地ソング"という呼ばれかたが一般化する。同時に「新宿ブルース」「盛り場ブルース」「長崎ブルース」など一連の歌謡ブルースの先駆けを作った歌謡史にとって大事な歌でもある

 だがこの歌、実は美川のためにかき下ろされた曲ではなかった。当時、岐阜の繁華街である柳ヶ瀬で流しをしていた宇佐英雄が自分自身で作詩作曲をし、自費でレコードを発売していた歌だったのである。それが岐阜界隈で盛んに歌われ、美川のレコード会社のクラウンが「柳ヶ瀬~」に着目した。青春歌手として芽が出ていなかった美川にあてがったのである。

 この歌が、自分に回ってきたときのことを、以前私は美川から聞いたことがある。

 「何しろ、あんたはじめて聞いたとき嫌で嫌でね。だってまだ可愛い盛りじゃない? 青春歌謡歌手、アイドルなのよ。自分としては舟木一夫か美川憲一かって思ってるわけだし。それがなんでこんな暗い歌歌わなくちゃならないのよ。こんなの歌えません……って断ったのよ。そしたら社長に呼び出されてさあ、歌えんならクビだって言うのよ。そりゃ怖いわよ。まだ売れてないんだし。仕方なく開き直って歌ったの。そしたらこれが売れちゃうんだもの。わかんないわよねえ。でもお陰で、それからはずっと暗いイメージ。人前で笑っちゃ駄目。でもね、よかったと思いますよ。あんとき社長に逆らわないで……」。

 この一曲が美川の運命を換えて、同名の映画にも初登場。さらに続いた"ご当地ソング"「釧路の夜」では、高音にファルセット(裏声)を駆使して、♪あなたがハー 憎い……と歌って、これまた100万枚突破。「紅白歌合戦」に初出場する。

 低音の魅力で「おんなの朝」「お金をちょうだい」「さそり座の女」と大ヒットを連発、「紅白」にも7回連続で出場したが、昭和50年代に入るととたんにヒット曲から見放され、大麻事件などに巻き込まれ一線を退いた。

 昭和60年代、"なんとか復帰を"、そんな苦闘時代に私がやっていたラジオ番組のゲストに、彼はよく顔を出してくれた。そのとき「いつまた、忙しくなってもいいようにと思っているのよ。たとえばスケジュールが真っ白だと気が滅入るでしょう。だから散歩でもショッピングでも何でも書き込んで真っ黒にするのよ。いつかまた時代が来るのよ。そう念じていれば……」と話していたことが印象的である。

 それからすぐだった。"タンスにゴン"のCMに起用され、コロッケのものまねで再認識され、美川は自分の思惑通りに一線に浮上した。コンサートはいつも超満員。毒舌も冴え渡って、人気再興。

 平成3(1991)年大晦日、17年ぶりに「紅白」の舞台に立ってからは宙を舞ったり、驚き衣装で楽しませてくれたりと、21世紀に入っても「紅白」の顔として君臨し続けている。

 自分の才能を信じ、回り道をものともせず、時流にのり、最大限の自己のアピールを忘れずに歩く姿は立派。

 それと同時に苦闘時代に世話になった人への心遣いも忘れない人だった。私のしがない番組にも、変わりなく出演してくれたし、どこかでお会いしても「あら」と必ず声をかけて下さる。

 「でも歌手なんだからそろそろ大ヒットも出さなきゃねえ」と笑った。