合田道人

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【み】水原弘 (2003年4月号)

 人はこの歌手を破滅型天才歌手と称した。厄年42歳で彼が亡くなって今年でもう25年も経つ。輝かしい第1回のレコード大賞歌手の名声も、どん底から勝ち得た「君こそわが命」での奇跡のカムバックも今や伝説になってしまった。現在もカラオケでよく歌われている「黄昏のビギン」や「女の爪あと」が、彼の作品だったことを知らない人も多くなった。

 栄光を手に、その栄光ゆえの豪遊がたたり、借金苦にあえぎ、挙句に体を痛め、壮絶に死んでいった男、水原弘、本名・高和正弘は昭和10(1935)年11月1日、東京深川に生まれる。幼い頃に両親が離婚、父親のいない家庭をカバーするために母は息子の心を小遣いで埋めさせた。中学時代から友人たちへのおごり癖がついていたという。この癖が後々、彼の人生を狂わせることになるのだ。

 高校を卒業した正弘少年は、のど自慢荒らしだった。後のフランク永井やアイ・ジョージなどとともに、常連として優勝争いをしていた。それが高じてルアナ・ハワイアンズのメンバーとなり、さらにパラダイスキングの一員として日劇ウェスタン・カーニバルに出演。すぐ後に守屋浩、井上ひろしとともに"3人ヒロシ"の一員、水原弘として売り出される。そんな頃、ウェスタン・カーニバル人気に便乗した映画が作られることになった。夏木陽介主演の「青春に賭けろ」。その中で夏木が歌を歌うシーンがあった。しかし、その歌は難曲だった。すぐさまそのシーンで歌う歌手を探すことになる。ロカビリーでデビューしている男性新人歌手を一同に集めてのオーディション。その難曲をさりげなく歌ったのが、水原だったのだ。そしてその難曲こそ「黒い花びら」である。

 設立間もない東芝レコードから昭和34(59)年8月に発売されると、映画の人気も手伝ってたちまち大ヒット。その年の暮れ「第1回レコード大賞」受賞。水原が「何だ、それ?」と言ったというほど、まだ知名度はなかった第1回大賞歌手の栄誉を手にしたのだ。同時に「紅白歌合戦」からもお呼びがかかって、たった1曲で彼は上りつめた。確かにその余韻で「黒い落葉」「黒い貝殻」の"黒"シリーズ、そして今も歌われる最初はB面曲だった「黄昏のビギン」や翌年の「紅白」曲「恋のカクテル」とヒットは続く。主演映画の撮影もした。でも同時に、中学生時代のあの癖が顔を覗かせてきたのだ。仕事のあとの豪遊。見も知らぬ客まで引き連れて銀座のクラブからクラブへ。飲む酒はレミーマルタン。ボトルキープ10万円。それを全部自分で払う。「おごられて飲む酒はまずい」と当時でひと晩300万円も飲んだことがある。それでも売れているうちはまだよかった。だが、売れなくなっても彼はそれを続けたのだ。いや落ち目になればなるほど派手になる。当然、借金地獄。賭博で警察の取調べを受けたなどゴシップも書かれるようになって、人気凋落! ヒット曲から完全に見放された。そんな彼が奇跡のカムバックを遂げたのは、昭和42(67)年だった。さすがにどん底生活だった。もうここから抜け出さなければならないとやっと気がついた。豪遊、酒豪を一掃し歌った歌、「君こそわが命」。

 彼の人間性を愛した仲間たちの、心の集結の実りだった。黙って放っておけない、その歌唱力が周囲を動かした証だった。"3000万円の宣伝費"と言われたカムバック作戦は、みごとに成功。100万枚を突破する大ヒットに育ったのである。そして暮れには、「レコード大賞」歌唱賞。その頃は、もう1回目のときとは違った。「レコード大賞」は、すでに歌手やレコード会社だけではなく、一般が大きく注目する年に一度の大イベントに育っていたのだ。彼はその報告を聞いて、号泣した。うれしかった。支えてくれた周囲の人々に、ただただ感謝した。5年ぶりの「紅白」の舞台、旧友のフランクもアイ・ジョージもあれから一度も落選せずに、彼の再登場を待っていてくれた。感激の歌唱だった。翌年の「愛の渚」「慟哭のブルース」、そして「女の爪あと」。それまでの黒いイメージ、夜のイメージをガラリと変えた「へんな女」や「お嫁に行くんだね」といったリズム歌謡とまたヒットは続いていた。

 少なくとも、昭和49(74)年、週刊誌に「悲惨! 水原弘がなんと3億5千万の借金」の文字が躍る前年までは「紅白」の常連として出場し続けていた。そうである、彼は再起と共にまたあの時代に逆戻りして。借金を重ねていたのだった。そしてこの時点で、借金のかたに自分を身売り、つまり歌を歌って借金を返済するという契約を金を借りた会社と結んでしまったのだ。仕方のない選択だった。どんな場所でも歌いに出された。ぎっしりつまったスケジュール。でももうそこには夢も希望もなかった。旅から旅へのドサ回り。出演料は右から左に消えてゆく。平均睡眠時間3時間。体が持つわけがなかった。

 昭和53(78)年6月23日、下関のクラブに出演後、北九州のホテルに宿泊。24日未明に吐血、意識不明となり救急車で運ばれる。危篤が続き旅先の病院で亡くなったのは11日後の7月5日だった。42年のあまりにも短い人生が壮絶に幕を閉じた。破滅型天才歌手。天才だったからこそ、彼はこんな人生を歩んだに違いない。天才だったゆえに、自ら人生を破滅させたんだろう。