合田道人

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【み】三田 明(2003年6月号より)

今年でデビュー丸40周年を迎えた。「と、いうことは"美しい十代"も時間(とき)を経て"美しい五十代"になったというわけですね」。先日ステージでご一緒したとき、そう言ったら「こらっ! 言わなきゃわかんないじゃないだろうが……」と客を沸かせた。いや、しっかりお客様もそれだけの年月を共に過ごしてきたのだ。

本名・潮(うしお)から名づけられた"ウッちゃん"は、まさにきらめく美少年ぶりを武器にして、日本テレビ系のスカウト番組「ホイホイ・ミュージックスクール」に合格。当時の作曲界の王者・吉田正門下生となって、昭和38(1963)年10月に16歳の彼をモデルにしたような歌「美しい十代」でデビューした。その美少年ぶりといったら説明不要。当然、デビューすぐに人気爆発!

翌年にかけ「みんな名もなく貧しいけれど」「若い港」「すばらしき級友(クラスメート)」と続く続く。さらにそんな人気を決定付けようと、レコード会社の先輩で吉田門下の姉弟子、吉永小百合がレコードの表面を担当した。だが吉永のA面は売れず、B面三田の「ごめんねチコちゃん」大ヒット。途中でAB面逆転。この歌で「紅白歌合戦」にも文句なしに初出場する。

先輩の橋幸夫、同期の舟木一夫、後輩の西郷輝彦が組んだ御三家を尻目に、ここでも孤軍奮闘。3人に負けず劣らぬの大人気で周囲は彼を加えて"四天王"とよばなければならないほどだった。

実際、御三家とは新人・西郷の売り出しのための作戦で、そこに先輩・橋の人気と「高校三年生」で一躍ブレイクした舟木一夫を組ませたものである。橋は今でも言う。「御三家は私ではなく舟木君、西郷君、三田君が妥当だったのでは?」。確かに橋は当時すでにレコード大賞も受賞していたし、「紅白」のトリの歌手にまで成長していた。年齢は若かったがランク的には、三橋美智也や三波春夫と互角だったわけだ。いや、その人気が新人たちには必要だったのだ。

橋幸夫も吉田門下だ。その点では三田を応援してやりたかったはずだが、結果的には西郷売り出しにひと役買ったという図式。と、なれば三田がどれだけすぐれた人気を保持していたかが分かる。先輩たちの力を借りずとも、自らの力でスター街道を驀進したわけだから……。

昭和40(1965)年に吉永小百合とデュェットした「明日は咲こう花咲こう」の大ヒットとて、吉永人気ではなく、すでに大スターふたりの共演という意味合いからの成功だった。

その後も「若い翼」「カリブの花」「夕子の涙」「タートル・ルックのいかす奴」「太陽のカーニバル」と年を追いながらも、やはり明るく弾んだイメージでのヒット作を放っていった。歌だけでなく、そのルックスは映画界からも誘いが殺到、過密スケジュールに翻弄される毎日。それはスターの証明であり、スターの宿命だったといってしまえばそれまでなのだが、少年から青年への階段の時代には、ひとり悶々と悩み続けていたはずである。

大きな悩みのひとつは"可愛いけど歌の下手な子"という心ない人々の声、そしてひとつは、あまりにも大きかった青春歌謡の代表作たちを越えなければいけない、越えなければいけない……という焦燥との戦いだった。

ヒット曲が落ち着き出した頃、彼はよくものまね番組の常連としてテレビに出ていた。象印賞とかという番組だった。今こそものまねといえば、コロッケだ、清水アキラだとなるのだが、あの時代は歌手が歌手をまねていたものだ。

五木ひろし、ちあきなおみ、森昌子の当時のヒット歌手たちが、優勝の意味に当たる象印賞の御三家だった。しかしその中で先輩の三田も出演すれば、必ず象印賞だった。やっぱり四天王だったのだ。

そこで彼は歌のうまさを憶えたのかもしれない。時代劇などの芝居やドラマの出演が、彼の歌を訓練していたのかもしれない。

大人の歌に挑戦し出し、数年後に有線放送を中心にしてヒットした「赤毛のおんな」「さよならの向こうで」「五月のバラ」などを歌い出した頃には、いつの間にか、しっとりとした大人のムードをかもし出す本格的なシンガーに変貌していた。歌唱力のない歌手だった……と言われていたことが不思議なほどだった。青春歌謡は思い出の歌コーナーにメドレー形式で歌っても納得するような大人の歌手になっていた。
以前と同じに誰の手も借りずに、ただまじめに努力してきたのだろう。でも"努力してきました"と絶対に大きな声で彼は云わないのだ。その努力を見ている人は必ずいる。
4月25日、東京全日空ホテルで彼の40周年記念パーティーが開催される。きっとそんな彼をずっと見てきた人たちが大勢集まって、心から祝福する光景が見られるのだろう。実に楽しみである。