合田道人

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「柿の木坂の家」(2004年6月第23号より)

 私が常任理事をつとめさせて頂いている社団法人・日本歌手協会の6代目会長に昨年就任したのが、青木光一である。

 聴いているだけで目の前に景色が浮かんでくる郷愁感、これぞ達人と思わせる歌のうま味は、今も変わらない。出兵、敗戦。シベリヤでの抑留生活を余儀なくされ、命からがら日本の土を踏んだ青木が、歌手デビューしたのは昭和25年。

 ところがすぐさまヒットは生まれない。28年、テレビの本放送がスタートする中で出世作「元気でね、左様なら」がヒットするが「紅白」出場はさらに4年後のことだった。だが、30年には「小島通いの郵便船」、31年には「早く帰ってコ」の大ヒットがある。けれど「紅白」には出ていないのだ。

 実は落選していたのではなかった。30年から青木は「紅白」からの出場の要請はされていたのだ。ところが「紅白」と同時刻にラジオ東京(現TBS)が「紅白」の内容をまねた番組を作ったのである。出演ギャラは、NHKの数倍といわれ、ラジオ東京側はNHKとのかけもち出演を認めず、美空ひばり、春日八郎、島倉千代子、高田浩吉、笠置シヅ子、越路吹雪ら当代のトップスターたちを先に確保していたのだ。その中に青木もいたのである。
『ギャラのために出場を辞退した……なんて、書かれたもんでした。ハハハ。その頃はテレビもそんなに普及していなかったから「紅白」自体、まだまだ知名度も低かったし、TBSと専属契約されていることも知らなかったんでね。私やひばりちゃん、島倉などコロムビアは2年間TBSの方に出たんですよ』。

 青木はからくりを説明する。そのため大ヒットとなった「小島通い~」も「早く帰ってコ」も「紅白」で歌われることがなかったのである。

 昭和32年、ラジオ東京が直接対決を避けることにより、「紅白」はまさにトップスター花盛りとなった。いわば「紅白」黄金期のスターである。美空ひばりが3年ぶりにカムバックして、20歳で堂々のトリ。島倉、青木も当然初出場を決める。しかし、青木が白軍の後半戦トップバッターとして歌った歌は「二代目船長さん」という歌だった。実際、本人すら『どんな歌だったけな』ともらす。なつメロ番組はもちろん、自分のショーの中でも歌うことがない「紅白」初出場曲なのである。

 ところがこの年には青木生涯の代表作、今も歌われる「柿の木坂の家」が発売されているのである。

 ではなぜ、この名曲が「紅白」で歌われなかったのであろうか?

 『実はね、この「柿の木坂~」って歌、最初は売れなかったんですよ。当時としては「二代目船長さん」のほうが売れたんです。それがじわりじわりとだんだんと浸透してきた。船村さん(徹)が作曲家としてのぼり調子になっていくに従って、耳になじんでいった歌なんですよ』。  なんとも不思議な驚きに包まれながら私は納得した。