合田道人

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「ふるさとのはなしをしよう」(2003年9月第14号より)

 1月26日午後10時1分、「若いふたり」「若い太陽」などの“若い”シリーズや、「忘れないさ」など、昭和30年代から40年代にかけて、はつらつとした若さと独特の高音で伸びのある歌声、やんちゃな少年ぽさで人気を誇った北原謙二が、亡くなった。享年65。

 亡くなった翌日も都内でイヴェントに出演する予定だった。生涯現役を通したと言っていいだろう、

 彼が突然、高血圧性脳内出血のために倒れたのは、まだ50歳になったばかりの平成3(1991)年のことだった。まだ元気だった頃に何度か仕事をご一緒したが、何しろ歌のうまい歌手だったという印象が残っている。

 歌い手にとって必要なものは個性である。それは僕のラジオのゲストに来てくれたときだった。倒れる2~3年前だったか、久々の新曲「大阪人形」を発売したときだった。歌の個性という話になった。すると彼は「ぼくは元来が『北風』(NORTE WIND)とか、カントリー・ウェスタン歌ってたからか、全部軽くスィングしながらって調子になるんだな」。

 自分の個性を充分に自分で知り尽くしていた人だった。その個性を生かした歌声が、長いこと人々の心を引きつけたと言って過言ではあるまい。

 同時に好き嫌いのはっきりした人だったことを思い出す。曲ったことが嫌いで、負けん気の強い人でもあった。

 病いに倒れ、“再起不能”と言われたが、手術を受け回復。左半身に障害が残ったものの、彼は持ち前の負けん気で、芸能活動を再開させたのだ。

 それからも歌手協会の仕事などで何度か同じ舞台に立たせてもらったが、会うたびに「元気?」「頑張れよ!」と、いつも反対に励まされたりしたものだった。

 昭和36年、ジャズ喫茶で歌っているところをスカウトされて「日暮れの小径」でデビュー。翌年、折からの流行のリズム、ドドンパにのせて歌ったNHKの『きょうのうた』として4月2日から2週間、テレビ、ラジオで放送された歌が「若いふたり」だった。 

 好評を受けてレコーディングしたとたんにベストセラーを記録して、その年の「第13回紅白歌合戦」にも選ばれた。同期の初出場歌手には、植木等、吉永小百合、五月みどりらがいた。

 そんな彼の大ヒットのひとつに「ふるさとのはなしをしよう」があった。

 勉強や仕事のため、都会に出てきた若者が、自分のふるさとに想いを馳せながら、好きになった人にお互いのふるさとの話をする……、そんなほのぼのとしたストーリーで、長く浸透、親しまれた歌である。

 この歌が発売されたのは、昭和40(1965)年1月のことだった。年間通して愛唱し続けられ、前年は15回記念大会で、「紅白」初期の往年のスターたちも選出することになって、同じレコード会社の先輩、伊藤久男や藤山一郎らに席を譲った格好だったが、この年は当然、この歌で「紅白」にカムバックする勢いだった。

 それがやむなく、不出場となる。

 その最大の理由は、この曲が大阪朝日放送で作られた“クレハ・ホーム・ソング”だったからである。今ではこんなことはないが、当時はNHK以外の民放で制作された歌を、NHKの放送で歌うことなどは考えられなかった。つまり、この歌はヒットしたものの「紅白」に限らず、当時はNHKの番組から流れることはなかったのである。

 昨年、この曲を山本譲二が新曲としてリバイバルして吹き込んだ。そして大晦日、山本の歌声ではじめて、あのヒットした年に聴けなかったこの名曲が「紅白」で紹介された。北原がはじめて歌ってヒットさせてから40年の月日が流れようとしていた。

 この歌の作曲家、キダ・タローは、今年の新年に北原から年賀状を受け取った。そこには『「ふるさと…」は私の宝です。いつまでも歌い続けます』と書かれていたという。合掌。