合田道人

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「港が見える丘」に隠れた「白い船のゐる港」平野愛子

 それは昭和22年のことだった。戦争が終って2年目、しかし日本人の生活は一向に楽にはならなかった。

 そんな頃、この人の歌声がラジオから流れていた。人々が忘れかけていた"平和"というにおいがこの人の歌の中にはあった。おそらく♪色あせた桜唯一つ淋しく咲いていた……日本の象徴である"桜"がどこか平和を感じさせてくれた。

 この人―平野愛子。大正8年、東京生まれである。戦争が終って一斉にレコード会社は新しい時代の新しい曲を出し始める。

 コロムビア『リンゴの歌』キング『東京の花売娘』オカッパル、テイチクは『かえり船』バタヤン……。しかしビクターは、昭和20年の東京大空襲によって文芸部もプレス工場も灰と化していた。

 新規巻き直しとして、その年の暮れに新人歌手募集を行い、二千数百人の応募の中から第一位に選ばれたのが彼女。レッスンが始まり戦後第一回作品として、この桜、そう『港が見える丘』は出来上がったものの吹き込もうにもしょせんスタジオがないのである。

 そんな苦境を耳にしたのが敵社、コロムビアの武藤与一社長だった。彼は他社のために戦災から免れた自社のスタジオと工場の使用を解放したのだ。『敵に塩を送られる』格好でビクターの再起がスタートしたわけである。

 そして平野愛子という新人がこの一曲でスターダムにのし上がり"ブルースの女王"淡谷のり子にならい"若きブルースの女王"と呼ばれるほどになってゆく。

 その後、懐かしの歌声ブームで彼女は再び脚光を浴びることになるが、選曲されるのはいつもきまってこの"桜"。たまに『君待てども』を歌ったが、その影に隠れたヒット作に『白い船のゐる港』がある。

 これは前2作同様、東辰三の作詩、作曲で『港が見える丘』の姉妹編ともいえる作品だ。

 ♪青い海に白い船 今日も見えるけど……と始まるこの歌も東独特の色彩が浮かぶ歌謡曲として愛唱されたが、東にとってはこれが最後のヒット曲となった。

 実はこの曲が売れている最中の昭和25年9月27日、ビクターの練習室でピアノに向かい作曲中、突然襲った脳出血のため倒れ急死したのである。名コンビだった平野も東亡き後はこれという曲にめぐり会うことができなかった。

 平野愛子が62才の若さでこの世を去ったのは昭和56年11月22日のこと。愛娘の淑子も歌手である。「『白い船~』もよく歌っていますよ。歌手が死ぬことで、いい歌まで死ぬということはいけないことだと思うの。だから私は母の歌を歌い継いでいくのです」と明るく語ってくれた。