合田道人

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「勘太郎月夜唄」に隠れた「長崎のザボン売り」小畑実

 小畑実がゴルフのプレー中に倒れ、55才の若さでそのまま帰らぬ人となったのは、昭和54年4月24日のことである。

 朝鮮平壌で産声を上げたのが大正12年のことだから現在も元気に活躍中の三波春夫や菊地章子らと同期。人の運命のはかなさを感じる。

 小畑のデビューは昭和16年。当時では珍しい十代歌手で翌年『婦系図の歌』戦後に『湯島の白梅』と改題のヒットで認められ戦後にかけて当代一の人気歌手として君臨した。彼の大きな特徴のひとつにレコード会社のはしごがある。普通、ヒット曲が出ると数年はその会社に在籍し、ヒットから見放されて他社へ移るというのは、よくある話だが、彼の場合、ヒット連発中に移籍し、移籍先でまたもやヒットを重ねるというはなれ技をやってのけたのだ。

 この記録は、おそらく現在までどの歌手も持ち合わせていない記録だろう。手始めにビクターで『婦系図~』そして『勘太郎月夜唄』。テイチクに行って『月夜のパイプ』、お次はキングで『長崎のザボン売り』『小判鮫~』に『星影の小径』、あきたらずコロムビアでは『涙のチャング』、そして再度ビクターに舞い戻って『高原の駅よさようなら』と売れる売れる。

 それが昭和32年大晦日、"紅白"の舞台を最後に"高原の駅"ならぬ"芸能界よさようなら"。突然、歌手活動にピリオドを打つ。その理由は、それまでずっと保っていた雑誌の人気投票で『お富さん』の春日八郎に首位の座を奪われたため。確かに人気商売とはいえども、1位から10位外に落ちたわけではない、2位なのだ。しかしこれぞ汐どきとばかり渡米し実業家へ転向してしまう。

 時流れ"なつメロブーム"到来。往年の歌手がテレビに引っ張り出される。テレビ局がこの人気ナンバーワン歌手を放っておくはずもなく、小畑実、復活。ヒット曲が多いため、毎回のように曲目は替えてはいたが、やはりどうしてもこの一曲となれば♪影か柳か勘太郎さんか…。オリンピックが開かれる長野は伊那の勘太郎に落ち着いてしまう。

 この勘太郎に隠れて大ヒットしたわりに選曲されなかったのが『長崎のザボン売り』ということになろうか。

 ♪鐘が鳴る鳴るマリアの鐘が…。異国情緒あふれる長崎をテーマにした歌は数多いが、小畑の鼻にかかったささやくような唱法が心地よく敗戦後の巷に流れていった。始まったばかりのNHK素人のど自慢でよく歌われたが明るいリズムとザボンという目新しい短語は、平和に飢えた日本人にとってまるで清涼剤のようだったのだ。

 ザボンは長崎名産の夏みかんより大型の黄色の果物。『リンゴの歌』がそうだったように水々しいフルーツは人々の憧れでもあった。

 なんとこのヒットで長崎にそれまでいなかった"ザボン売り"という職業が出現したという。

(昭和23年6月発売)