合田道人

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「赤い靴のタンゴ」「青い山脈」に隠れた「白いランプの灯る道」奈良光枝

 "美人薄命"を地で行った人‐‐‐‐‐それが彼女の印象である。女優としても人気を博した奈良光枝が黄泉の国へ旅立ったのは昭和52年、55才のとき。若すぎる死出だった。

 青森、弘前生まれの彼女は幼い日より音楽の才に長け上京し音大に入学する。声楽は当然、クラシック、オペラであるが、子供時分から体が弱かった彼女に体力を要するオペラは向かなかった。しかし"田舎に帰るなら負けたままでは嫌"‐‐‐‐‐そんな青森、津軽特有のじょっぱり精神がレコード歌手の道を歩ませた。

 昭和15年、コロムビアに入社。古賀政男に歌謡曲のイロハを叩きこまれた末、昭和18年、藤山一郎と組んだ「青い牧場」で初ヒット。

 敗戦をはさんだ昭和21年、近江俊郎と歌った「悲しき竹笛」、そして24年、藤山一郎との「青い山脈」で奈良光枝の名は大きくクローズアップされトップ歌手の座に踊り出た。同時にその美貌を映画会社が放っておく筈もなく女優としての活躍も少なくなかった。

 そしてデュエット曲ではなくソロで彼女の歌手としての最大級ヒット曲になったのが昭和25年の「赤い靴のタンゴ」である。この年、アンデルセンの童話「赤い靴」をヒントにした同名のイギリス映画が日本で公開、人気を上げたのをきっかけにこの曲が誕生。「湯の町エレジー」や「トンコ節」など演歌調が多かった古賀メロディ‐としては珍しいハイカラな歌謡曲に仕上がった。

 この「赤い靴~」の"赤"、そしてデュオでの代表作「青い山脈」の"青"に対して昭和26年に出し、ヒットしたのが"白"  「白いランプの灯る道」である。

 これは、当時ののど自慢で女性の応募者がよく歌う曲として"赤""青"に負けず劣らず評判が高く、昭和30年代にかけて長く愛唱された。

 しかし"なつメロブーム"になり奈良が歌う曲となればどうしても"赤""青"に押され気味で、本人が『私の数あるレパートリーの中で最も好きな歌』といつも口にしていたわりに、聞く機会が少なかったのがこの歌ということになる。

 作曲の古関裕而は、その頃映画「長崎の鐘」の音楽担当で『録音のとき撮影所とスタジオの間に白い道があり、夜通った際の淋しさや静かさを五線紙に綴ったものがこの曲になった』と生前語っている。

 今聞き直しても品格のあるメロディーと若く逝った奈良の清楚な歌声がその淋しさ、静かさをみごとに表現していることに気がつく。