合田道人

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第三回「武田節」山梨県甲府市(2002年9月号より)

 「五木の子守唄」を全国的に広めたのは、芸者歌手の照菊だった。SPレコード時代は今のように両面が同じ歌手ということは、ほとんどなかった。特に新人売り出しのときなどはどちらかの面にスター歌手を擁して、その力で新人を売り出した。

 日本の歌手の中で、最もレコードの売り上げ枚数が多い歌手は、1億枚を売った三橋美智也である。この記録は美空ひばりとて塗り替えられなかった。その三橋売り出しにひと役買ったスター歌手が照菊だった。

 三橋のデビュー作は、福島県の「新相馬ぶし」をアンコした昭和29(1954)年の「酒の苦さよ」だったが、そのB面は「宮津節」を入れた照菊の「ぴんと出した」だった。さらに三橋の人気を決定づけた「おんな船頭唄」はB面に回り、A面は照菊の「逢初ブルース」だった。この一曲で三橋は、民謡で鍛えた独特の高音で日本一の大歌手に育って行くのである。

 「おんな船頭唄」は潮来をテーマにした歌だったが、その後も「江差恋しや」、「あばよ東京」、「石狩川エレジー」とご当地もの、数知れず。「北海盆唄」、「花笠音頭」など、その土地でしか知られていなかった民謡も三橋の声で全国的な大ヒットになった。

 こういった昔から土地に根ざしていた民謡と異なり、新しい感覚で作り上げられたものに新民謡と呼ばれるものがある。地方から委託されて作った「~音頭」や「~小唄」という類いのものである。地元のお祭りや盆踊りのときなどに流れてくる歌だ。三橋もたくさん、そういったものを製作しているが、そんな中で昭和36(1961)年に山梨県から依頼されて作り、地元を通り越し、全国的に流行した歌がある。それが「武田節」だった。

 この歌の主人公、戦国時代の豪族、武田信玄は、なお英雄として語り続けられている。甲府駅前には信玄の像が立ち、まるで今でも甲斐の国を見守っているようである。

 信玄の旗印である『疾(と)きこと風の如く 徐(しず)かなること林の如し…』を詩吟として、朗々と格調高く歌われる「武田節」には信玄の戦国ロマンが満ち溢れているのである。

 武田信虎の子、信玄は天文10(1541)年に父を追放して家督を継いだ。今川義元死後に駿河にも進出した。また上杉謙信との11年に渡る川中島の合戦は有名。元亀3(1572)年織田・徳川軍と三方ヶ原で対戦、天下統一を目指したが、志し半ばに没した。

 もし信長ではなく、武力、兵法にすぐれ、芸術や宗教にも深い理解を示した名将信玄が天下人になっていたら、どんな日本になっていたのだろうか?