合田道人

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第七回 菊池章子・二葉百合子「岸壁の母」(2003年1月号より)

~還らぬわが子を待ちわびて……~

 先月は、実際に起こったボート転覆を題材にして歌われた「真白き富士の根」を書いた。この歌を昭和29(1954)年に再ヒットさせたのは菊池章子だ。菊池が同年「真白き~」に続き放ったヒットが「岸壁の母」だった。昭和50(1975)年代になってから、二葉百合子の声でも歌われ、戦争の悲しみを改めて人々に思い起こさせたものである。

 この歌は戦争に赴いた息子の帰還を待ちわび、引揚船が着くというニュースを聞くたび毎回、東京から京都の舞鶴港まで訪ねた母、端野いせさんを主人公にして作られた実話歌謡である。終戦のとき、海外諸地域で敗戦の報を受けた日本人の数は、軍人、一般人を含んでおよそ六百三十万人以上といわれる。敗戦翌月から、軍港である舞鶴はじめ、横浜、下関、佐世保など十港が指定され、外地からの引揚が始まった。それが25(50)年以降は、舞鶴が唯一の引揚港となる。シベリアに抑留された日本兵がおもだった。一縷の望みをかけた母や妻が舞鶴にわざわざ移住したり、船が着くたびに遠くからかけつける光景が見られたものだ。現に舞鶴の町は"引揚の町"と形容されていたのだ。
最後の引揚船が舞鶴に着いたというニュースが、ラジオから流れたのは29(54)年秋。そのとき「私は息子の新二が帰るまで死にやせん。いつまでも待っている」と、涙でインタビューに答えたのが、いせさんだったのである。その様子をラジオで聞いた作詩家の藤田まさとは、憤りと哀感を筆にこめた。ひと晩でこの歌は出来上がり、曲もすぐつけられた。菊池から「涙があふれて歌にならず何度もやり直した」と直接伺ったことがある。
それを人々の脳裏から戦争のかげが消え失せた昭和47(1973)年に女流浪曲の二葉が歌い、50年代に入ると大ブレイク。山口百恵らとともにヒットチャートのトップ争いをするほどになり、中村玉緒主演で映画化までされロングランを記録したのである。
まだイセさんは健在だったが、新二さんは日本に帰っていなかった。しかし「息子は必ずどこかに生きている」という言葉は変わっていなかった。ブームを反映するかのように53(78)年、舞鶴引揚公園にこの歌の歌碑が建てられた。その場所に立つと今も、極寒のシベリアの地で遥か祖国に想いをはせる望郷の慟哭が聞こえてくるようだ。
イセさんが亡くなったのは、その3年後だった。そして"戦争の時代"といわれた20世紀が終わりを告げる平成12(2000)年、新二さんが中国で生きていたという報が
流れた。「きっとおばあちゃんは、"ほら、わしの言った通りじゃろ"と天国で言ってるような気がしますね。これからはこの歌を"平和への祈りの歌"、"二度と戦争は起こしてはいけない"という心でいつまでも歌い継ぎたいと思っています」。二葉は、そう語った。