合田道人

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第八回「無法松の一生」福岡県・小倉(2003年2月号より)

 先月、ここに書いた「岸壁の母」の二葉百合子はご存知、浪曲界の出身。浪曲から歌謡曲も歌い出したのは、昭和32(1957)年のことである。実はそのころ、浪曲歌手から歌謡歌手への転身が、ちょっとしたブームだった。同年、三波春夫が「チャンチキおけさ」で成功。翌年、村田英雄が「無法松の一生」でまたまた成功を遂げるのである。

 村田は、昭和4(29)年佐賀県の生まれ。父も浪曲家、母は相方の三味線弾き。4歳で茶目丸を名乗り、5歳で初舞台を踏んだ。その後、浪曲の酒井雲に弟子入りし、酒井雲坊として13歳で"天才少年浪曲師登場"と騒がれた。22歳で上京、25歳のとき、新作浪曲コンクールで優勝。これを機に村田英雄と改名し、放送にもたびたび使われる"浪曲界のホープ"として、将来を期待されていた。

 そんな彼の声をラジオで偶然聞いたのが、作曲家の大御所・古賀政男だったのである。運命だった。古賀は浪曲で鍛えた男っぽく、骨っぽい歌に惚れた。突然、村田の巡業先に何の前触れもなく「古賀ですが……」と、電話を入れた。古賀姓は九州に多い。古賀政男も、もちらん九州の出身である。電話に出た村田は、故郷の友達かと思い「どこの古賀さんで?」と、聞き返したという。それほどまでに予想外だったのだ。

 確かに、浪曲界では後輩に当たる三波春夫の歌謡界での活躍は知っていたが、まさか自分が歌の世界に入るとは思いも及ばなかった。それも御大自らの電話と知り、村田は驚いてしまった。「何かいけないことをしただろうか?」と、とっさに考えた。自分がスカウトなどされようとは思っていないのだから、きっとお叱りか何かの電話だと決め込んだ。

 その内、古賀の話す電話の内容が、自分にとって夢のような話だと、だんだん理解できてきた。「きみのすばらしい声を歌の世界でも花開かせてみないか?」

 地方巡業を終えて、さっそく彼は古賀邸を訪ねた。そしてしばらくして彼に与えられたのが「無法松の一生」だったのである。
それまで幾たびも映画や舞台化された岩下俊作の「富島松五郎傳」。九州福岡小倉の名物男、人力車夫の松五郎、人よんで無法松。無茶で乱暴者だけど、お人好しで義侠心の持ち主。そんな松五郎に、村田はなり切った。当初、このレコードの裏面に入っていた歌が「度胸千両」。ある時期から「度胸千両」をアンコした「無法松~」は村田の十八番となり、今年6月に亡くなるまで、大切なレパートリーとして歌い続けた。

 JR小倉駅近くに、まるで墓石のような『無法松の碑』が建つ。碑の横にはいつも松が青々と茂り、前にはいつも花が手向けられている。まさに無法松は九州人の誇りであり、永遠の人間像なのかもしれない。今頃、黄泉の国とやらで松五郎を囲んで、古賀と村田も九州男児として、酒を酌み交わしているかもしれない。