合田道人

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第九回「箱根八里の半次郎」神奈川県・箱根(2003年3月号より)

~やだねったらやだね……と、歌いながらの難所越え~

 先月は村田英雄のデビュー曲、「無法松の一生」を取り上げたが、この歌を歌い継いだ後輩歌手の数は案外多い。先日の大晦日、テレビ東京系「年忘れにっぽんの歌」では神野美伽が披露したし、昨年夏のNHK「思い出のメロディー」では、演歌界のプリンス、氷川きよしが力唱した。

 村田のデビュー曲が「無法松~」なら、氷川のデビュー曲は、おなじみ流行語にまでなった、♪やだねったら やだね……、「箱根八里の半次郎」。美少年きよしのデビューは、誠にインパクトが強かった。

 20世紀最後の年だった。"なんで今更、股旅モノ"と、周囲は驚いた。でも彼は、デビュー時から、何しろ光り輝いていたのを思い出す。「この子はいく」。もう直感だった。

 彼を育てた作曲家の水森英夫氏と酒を酌み交わしながら、彼のことを話したことがあった。「どうして、股旅になったの?」。その問いに水森は、「新しい演歌、新しい演歌のスターって言って、新しいタイプの演歌を作っても無駄なんだよね。氷川がデビューのとき、演歌を支援する人が一番安心して聴けて、間違いないのは股旅モノだって会社に言ったんだ。そうしたらみんなあっけに取られてた」。しかし、水森はそれを実行したのである。あえて古めかしい股旅演歌に息吹を吹きかけたのである。その代わり、絶対に古いタイプの演歌歌手特有の派手なスーツはやめようと思った。若い人たちの流行をファッションに取り入れたいとも考えた。今どきの男の子といったら、茶髪にピアスだ。きよしデビューのときのスタイルである。

 だが実はデビューするまで、彼は茶髪でもなければピアスもしていなかったのだ。水森が「半次郎」のジャケット撮りの前に「茶髪とピアスをしてこい」と命じたのである。同時にビートたけしに、その名を命名してもらうことを事務所に依頼した。そこからあとは、彼の育まれたスター独特の光りと事務所、レコード会社のみごとな連係プレーだった。股旅演歌は甦った。そして、ここ十数年現れなかった新しき男性演歌スターが生まれたのである。

 私は彼の初代マネージャーにこんなことを言ったことがある。「20世紀は"箱根八里"で始まり、"箱根八里"で終わるんですよ」。「何なの、それ?」。20世紀最後の大ヒット曲は、まぎれもなくきよしの「箱根八里~」なのだが、実は20世紀最初の年、つまり1901(明治34年)に作られた歌も、「箱根八里」なのである。滝廉太郎作曲の、そう、♪箱根の山は 天下の剣 函谷関も物ならず……だったのである。20世紀はまさに「箱根八里」で始まり、「箱根八里」に終わったのだ。

 元祖「箱根八里」の歌碑は、箱根山、旧関所跡に建つが、さて箱根八里って? 一里が4キロだから4×8=32キロ…。では、箱根八里ってどこからどこまでをいうのかご存知か? 小田原から箱根関所までが四里十丁、さらにここから三島まで三里二十丁、合わせて約八里あることから、箱根八里とよばれてきたのである。箱根は山脈が並び、箱を重ね合わせた峰のように見えるから、こう名づけられたが、長い間、江戸と京を結ぶ東海道五十三次最大の難所だったのである。だがきよしは、その難所を♪やだねったら やだね……と鼻歌のように軽く歌いながら、難なく通り抜けてしまったのである。