合田道人

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第十回「東京ラプソディー」東京都・銀座、神田、浅草、新宿(2003年4月号より)

 前回取り上げた氷川きよしは、『箱根八里の半次郎』に始まり、昨年は『きよしのズンドコ節』で気を吐いた。『ズンドコ節』は戦時中に海軍の軍人たちの間で大流行した作者不詳の代表的兵隊ソング。それをベースに終戦後、田端義夫が『ズンドコ節~街の伊達男(ダンディー)~』としてヒットさせ、昭和30年代になって小林旭、さらに40年代にはザ・ドリフターズがそれぞれリバイバルして大ヒットさせた。そして三十年ぶりに今度は氷川によってリメイクされた息の長いヒット作である。

 しかしこの元歌、どんな歌だったのだろうか?というのがずっと謎だった。実は、昭和12(1937)年9月にB面曲として発売されていた藤山一郎の『銀座八丁』だったのである。

 藤山は少年時代の大正期に本名のまま童謡を吹き込んだが、大学在学中の昭和6('31)年に古賀政男作曲の『キャンプ小唄』をレコーディングしている。音楽学校には「校外での演奏は禁ず」の校則があった。だが父が営む呉服屋が経営難に陥り、アルバイトせざるを得なくなったのだ。本名をふせ藤山一郎の名でコロムビアで30数曲、他の芸名でポリドールなどでもレコーディングした。しかしそのうち、かの『酒は涙か溜息か』『丘を越えて』『影を慕いて』が連続して大ヒットしてしまう。当然、学校の知れるところになってしまった。校則違反は即退学である。特にクラシック、オペラを教える音大では「歌謡曲、流行歌を唄うとはけしからん!」という気風に溢れていた。そんな中で、彼の才能を認めていた何人かの先生たちが、藤山の退学を断固反対、「卒業まではレコード吹き込みをしない」という始末書を書いて、なんと1ヶ月の停学処分だけで免れたのだった。

 昭和8('33)年、主席で卒業した藤山はビクターを経て11('36)年にテイチクに移籍、15('40)年からは、再びコロムビアに移っている。この4年間のテイチク時代に唄ったのが『ズンドコ節』の元歌だったというわだ。これは目立ったヒットにならなかったものの、たった4年間のテイチクでは後世に伝わったビッグヒットがことの外多い。『男の純情』がそうだし、『青い背広で』『白虎隊』がそうだ。そしてテイチク移籍第一弾が『東京ラプソディー』『東京娘』のカップリングだった。両面ともに大ヒット。特に『東京ラプソディー』は、軽快ではつらつとした藤山の歌声が若者の心をとらえ、発売してすでに70年近いというのに、今なお唄い継がれている昭和の青春の名作である。

 昭和初期の憧れの大都会・東京を、一番は今でも象徴的な銀座の柳、二番・神田ニコライ堂と唄っているのだが、三番の浅草はジャズ、四番には新宿でダンサーと唄われている。ということは、ジャズという言葉からして、当時は新しい流行の音楽のメッカが浅草であったことが分かり、ダンサーから繁華街や夜の街、なまめかしい街が新宿という位置づけだったことが分かる。

 交通の便が悪かった時代、まだ見ぬ東京の姿を全国の人々は♪楽し都 恋の都 夢のパラダイスよ 花の東京……と、この歌を聴きながら想像していたに違いない。